高橋名人誕生秘話
文章長いのでゆっくりとお茶を飲みながら読んでください(笑)

当時の高橋名人 現在の高橋名人
高橋名人といえば「無敵の秒間16連射」をやった。
ファミコン界では「頼れる兄貴」として
子供から愛されていました。
現在高橋名人はハドソンブランド事業本部
事業推進部  営業課マネージャー

1:バナナの叩き売りからゲーム業界への転身

 ハドソンに入る前はスーパーマーケットで働いてたんです。札幌のハドソン本社にほど近いスーパーでね。そこの店頭で野菜や果物を売ってました。「お母さん、柿、いかがですか!美味しいですよ〜」なんて言いながら、試食の柿を噛ってみせる。売り場担当というより、バナナのたたき売りのニイさんみたいなモンです。それでけっこう売ってたんですよ、当時から声がデカかったので、そこに目をつけられて担当させられたんでしょうね。それが80年ごろ・・・21歳くらいの話です。家庭用テレビゲームなんて触ったこともなかったですね。インベーダーゲームの登場が78年ですから、もちろん子供のころにはコンピュータゲームの存在すらありませんでした。  インベーダーゲームはやりましたよ。でも、一回につき300円くらい。投資が少ないけど、貧乏でしたからしょうがないですよね。給料の手取りが8万9000円。立ち飲み屋の日本酒がコップ一杯100円だった時代です。そんな安酒でも飲み代が足りないからどうやって効率良く酔うか考えて、イッキ飲みした後、店の周囲を走ったり。それで息をゼイゼイ言わせながら、また100円でイッキ飲みする。酔ってるのか酸欠なのか自分でもわからないんですけど、とにかくヘロヘロになってました(苦笑)。  そんな僕にとって、一回100円のインベーダーゲームは豪遊だったんですよ。当時はオジさんが万札をコインに替えて、ゲーム喫茶に入り浸りでしたから。僕は、そんなに上手なほうではなかったと思いますよ。いまにして考えると、昔のゲームって高価な遊びでしたよね。たたき売りのニイさんがソフトハウスに就職するきっかけになったのは、はずみでコンピュータを買ったことでした。なんの知識もないまま……本体・フロッピー・メモリー・プリンター……と揃えたら100万円くらいになっちゃいまして。そのころに乗っていた中古の愛車・サニーの3倍の出資ですよ。貧乏でしたから、当然ローン、お約束のように、まったく操作がわからなくていったん放り出すんですけど、ローン返済の催促だけはきっちりくるわけです。しょうがないから、少しでも元を取ろうとパソコン雑誌を買って勉強したんですね。そしたら、どんどん面白くなっちゃってもうスーパーマーケットの仕事はいいかななんて思い始めて、どこかにパソコン関係の仕事はないかと探したんですよ。そしたら、ものすごい近所にハドソンって会社があったわけです。電話して遊びのつもりでいくと、「あれ!? キミ、スーパーで果物売ってるでしょ?」と。「あの声で営業やってくれたらいいなぁ」なんて、やっぱり声に惚れられて、ハドソンに入社することになりました。さらに、希望を出してもいないのに、気がつくと東京に行くことに話が決まっていてね。「おまえ、今日の午後、東京行け。な!」みたいな感じです。これが82年のことですね。ハドソンがファミコンに参入したのは84年です。『ナッツ&ミルク』と『ロードランナー』が発売になりました。当時の任天堂さんは、現金取引で商品を作るのにまずお金が必要でした。「これで売れなかったら倒産だね」なんて笑ってましたけど、ホントは笑っていられないシビアな状況でした。  でも、おかげさまで売れたんです。特にロードランナーは120万本。当時は3面ほどのステージ内容を繰り返すゲームが多かったのに、50面もあって画面も自分で作れるというのは画期的だったんですよ。品切れになって、「どうなってるんだ!」と問屋に怒られるんですけど、「いま作ってますから」と頭を下げるしかありません。社内にすら一本もありませんでしたからね。ファミコン一発目から予想もしない右往左往を経験しました。


2:ゲーム界のカリスマ「高橋名人」の誕生
ハドソンがファミコンで成功して、僕はファミコン部門の宣伝セクションに移りました。高橋利幸が“高橋名人”になったのは85年、『チャンピオンシップロードランナー』が発売された年ですね。  当時、小学館の『コロコロコミック』とお付き合いさせていただくようになっていたんですが、「『コロコロマンガ祭り』というイベントを銀座の松坂屋で催すんだけど、ゲームを出展してみない?」とお誘いがあったんですよ。その当時はまだゲームの人気が手探り状態だったから、コロコロの編集さん側は、子供がどんな反応をするのかナマで見たかったんだと思います。僕らも前作より難しくなった『チャンピオンシップ〜』が子供にウケるのか見たいと考えていた。お互いの思惑が一致して、85年の2月の『コロコロマンガ祭り』でゲームを披露したんです。ハドソンから送り込まれた現場の担当は、宣伝の僕。正直、それほど深くプランを練ったりもしなかったんですよ。その時はゲーム大会なんて発想はなくて、大きなモニターを用意しただけの、ただのデモンストレーションだったんです。でも、当日はビックリですよ。約1000人もの子供たちが集まって、みんな期待した顔で待ってるじゃないですか。仕方ない、イベントのお兄さんっぽく盛り上げてみたワケです。「このパスワードは●面だ〜!」なんてやったら、子供たちから「おおーっ」って歓声やどよめきが上がる。「子供って、素直でカワイイなー」なんて思いながら、無事ステージは終了して、やれやれ帰ろうと思ったら300人くらい子供たちが待ってるんです。「どうしたの?」って聞くと「サインください!」って(笑)。サインなんて考えてないもん、普通に漢字で名前書いたり、疲れたらアルファベットにしたりして、全員分を書きました。当日の反応を見たコロコロの編集長とウチの専務が話し合って、「コレを全国でやったらウケるんじゃない?」となったんです。『全国キャラバンファミコン大会』をぜひやろうって。会社としてはイイ話だけど担当するのは僕かよ、みたいな感じでした(苦笑)。だって、準備期間5カ月で全国63カ所もまわるんですよ。僕が36カ所、毛利(公信氏。高橋名人の永遠のライバル『毛利名人』として活躍)が27カ所の担当でした。  最初の鹿児島では午前の部250人、午後の部250人くらいだったんですけど、キャラバンが進行するにつれて、人数がだんだん増えていきました。最後の大阪では、会場の阪急デパートを4周半するほど子供たちがあつまって。最初の一周分の子供たちしか参加できないほど盛況でした。これが第一回キャラバンの話です。キャラバンが成功して、次にやるようになったのがテレビ東京の『おはようスタジオ』という番組の出演。水曜日の朝7時15分からの放送で、毎週、ゲームの攻略法なんかを喋ってました。当時のゲームはパスワードが20数文字くらいあったんですが、ちゃんと覚えていましたよ。それをボードにすらすら書いて、「これが●面のパスワード!」とかやるんです。子供たちからすれば、めちゃめちゃゲームに詳しい、何だかスゴイ人に見えたんでしょうね。  次第に『高橋名人』の名前が浸透していって、決定的だったのは85年の暮れ。11月に『スーパーマリオブラザース』が任天堂さんから発売になると同時に世の中を席巻してファミコン本体がどこも品切れになる大ブレイクが起きたんです。そうなると、一般のマスコミもファミコンに注目するようになって、「誰かファミコンについてコメントできるヤツはいないか」となるじゃないですか。それで僕に白羽の矢が立ち、よく取材依頼が来ました。  それからですよ、僕が高橋利幸ではなく、『高橋名人』として広く認知されてしまったのはそれまでも子供から「高橋名人だ!」って言われてましたけど、夜の飲み屋街でも「おっ、高橋名人!」と声をかけられるようになっちゃって

3:熱狂の背景にあった過酷な生活と苦悩

僕が言うのも何ですが、当時、高橋名人の影響力は大きかったんですよ。テレビで「このゲーム面白いよ!」と言えば、実際に売れましたから。だけど僕はハドソンの人間だから、他のメーカーのソフトは面白いって言わないですよね。それで、各社が名人を作りたがったんですよ。自社のソフトを「面白いよ!」って言う、子供に支持される名人を。だから一時は各社が名人を作って40人くらいいましたよ。でも、名前が売れたのは4・5人かな。子供って敏感なんですよ。ホントに子供の味方をしてくれるのか、仕事でやってるのか、ちゃんと見抜いちゃう。 もちろんゲームも上手じゃないとダメですよね。ある名人はウケを狙って、目立つ黒いマントを羽織りゲーム会場に颯爽と登場したんだけど、デモンストレーションのゲームで連続3回ミスっちゃったんです。そしたら会場の子供たちから「帰れ〜!」コールですよ。僕は練習では失敗ばっかりしてたんですけど、運が良いのか開き直ってたのか、本番ではすんなりいきました。だから、どこの会場に行っても子供にはモテましたよ。でも、子供相手の鉄則は30分まで。それを越えるとだんだんと近寄ってきて、掴むは引っ張るはカンチョーするわ、ヒドイ目にあいます(苦笑)。30分で盛り上げて、身の危険を感じたら撤収するって感じでした。だって、大きい会場だと3000人以上の子供たちがワッと集まるんですから。想像してください、ホントに怖いです。率直に言うと、高橋名人をやっていて良いことなんてなかったですね。会社から「ピンク街は歩くな」なんて言われて、歌舞伎町に映画を観に行くのも、裏道に入らないようにするような不自由さでした。趣味のバイクも「事故ったら代わりがいないだろ」で禁止。朝は10時には取材が入ってるし、夜はテレビの収録で27時終了予定なんて、無茶苦茶なスケジュールでした。睡眠時間は平均2時間半。日本中飛び回ってたから、航空各社のビジネスチケットを一冊ずつ持ち歩いてました。何も自由なんて無いです。唯一、各地の美味しいモノをいただけたのが幸せだったかなあ。  そんな状態だったので、ゲームは朝起きて1時間くらいしかプレイしてなかったんですよね。趣味っていうより、仕事でやらざるを得なかった、というところ。ちっとも楽しくはないですよ。伝説の16連射?練習なんてしてないです。子供たちを前にして、上手に敵を倒さなきゃって、必死にやってるうちに自然にできるようになっていました。毛利と2人で出演した『GAME KING 高橋名人VS毛利名人 激突!大決戦』って映画で、スタッフの人がご親切にも撮影したフィルムからカウントしてくれたんです。そしたら「10秒間で172発撃ってる」って。コロコロの読者から、「名人は『ラリオス』や『ラザロ』を倒すのが早いけど、何発撃ってるんですか?」なんて質問があったから、それじゃ、1秒間に16連射にしとこう、みたいな感じで。今?この間やってみたら13発くらいでした。もうオジサンですから、最近ではそれが精一杯ですね。今のゲームって腕前をみせるのが難しい。誰がやっても派手になるように演出されているからです。派手に見えることは宣伝効果に繋がりやすいから、作り手としては自然とそうなっちゃいます。ファミコンの頃のゲームってビジュアルがシンプルだったんですよね。小さくて荒いドット絵のキャラクタがピコピコって出てくるような。どうやったら画面が派手に見えるか考えないと、デモンストレーションにならなかったところがあります。だから名人がいたんです。いまのゲームには名人は必要ないですよね 1秒間に16発打つことに意味があったのが昔のゲームですよね。当時はシューティングゲームが主流だったでしょう。敵にやられないようにするには、敵が画面に出てきた瞬間に打ち落とせば楽なんです。だけど、僕は名人って呼び名のデモンストレーターですから、敵の姿や飛び方がハッキリわからないうちから打ち落としちゃダメなワケです。撃たないで待つ。そうすると画面は敵でいっぱいになって、スリリングになる。避けながら、頃合いを見て一気に打ち落とすんですだからこそ連射に意味があった。僕がよく、「昔のゲームのほうが見せ場を作りやすかった」なんて言ったりするのは、そういう意味です。そのための名人だった。名人は見せ場を作って、子供にも負けちゃいけない。子供の前では常にエンターテイナーに徹していたんですよ。それだけに、いつも緊張感に晒されていました。


4:高橋名人が築き上げたもの

 当時は僕、タバコを吸っていたんです。だけど、子供の前では絶対に吸いませんでした。というより、吸えませんでした。ゲームキャラバンなんかで飛び回りながら、仕事にやりがいはあったし、僕はこの世界で生きていくんだろうなという、おぼろげな予測があったんです。だから、ブームでゲーム人気があるうちに売っちまえじゃなくて、どうやったらこの業界が根付くかってことに思いを巡らせていた。そのためにも、子供たちの毒になってはいけない。親たちの興味も念頭にいれなくちゃって思ってました。 で、キャラバンの福岡大会に行ったときのことです。会場には子供が250人くらいいて、その周囲をお母さんたちがぐるっと囲んでいたんですよ。その時はもう、子供がテレビゲームに夢中になって勉強しないなんて批判され始めてた頃だから、この状況はマズイなーって思いまして。それで、ステージ上で口をついて出たのが「ゲームは1日1時間!」だったんですその瞬間会場中のお母さんが一斉に「ウンウン」って頷いたんですよ。やっぱりゲームという遊びであっても、社会的な配慮が必要なんだなと思いました。子供が5時間も6時間もゲームをやったら、親としては取り上げるしかないでしょう。健康的な生活って意味では、野球やサッカーをやって身体を動かして、そのあと誰かの家でみんなでゲームをやればいいじゃないって、思ってましたから。お母さんたちはそこのところに共感してくれて、頷いたんだと思います。でもね、その後が大変でした問屋や販売店から、「ゲーム屋が『ゲームは1日1時間』なんて宣言するとは何事だ!」と、会社に苦情がたくさん来ちゃったんですよ。毎日長時間ゲームをしてもらって、新しいゲームを買ってもらわないと困るじゃないか、という具合。商売する側からすれば当然ですよね。  僕がそんなことを言っちゃったばかりに、ハドソンで役員会議が行われたんですよ。もちろん僕抜きで。「高橋をどうするか?」ってね。その時に、「ヤツはケシカランから他の誰かを名人にしろ」と判断されていたら、いまの僕はなかったかもしれません。でも、「長い目でみれば、高橋の言っていることは正しい」と評価してくれて、社長が『ゲームは1日1時間』を標語にしてくれたの。会社がサポートしてくれたんです。でこのことは今でも業界の関係者によく言われます。「最初の名人が高橋さんでよかった」って。「ガキ大将みたいな陽気なキャラのアンタが、元気に広告してくれたから、子供たちにも社会にもイメージが良かった」、とね。「たとえばパソコンおたくのように、青白い顔をして理屈っぽい男だったりしたら、ゲームという存在自体のイメージが変わっていたかもね」なんてことも言われました。そうやって褒めてもらえるのは光栄だし、嬉しいことですけど、僕からすれば、普段通りの姿のままで行動していただけなんです。


5:これからのゲームに望むこと〜コミュニケーションの大切さ

最近のゲームは頂点を目指し過ぎたと思うんです。さらに難しく、もっと複雑に……ってなったでしょう。RPGなんて、クリアするのに40時間以上もかかるタイトルがざらにある。ちゃんと終わらずに放り出してしまって、「ゲームって面倒くさいな」となっちゃう人がたくさんいると思います。だから、一方でケータイ用ゲームのシンプルさが人気になるんだと考えたりしてるんですよね。  去年、「ハドソンセレクション」というシリーズを出しました。『冒険島』とか『スターソルジャー』とか、かつてのヒット作をリメイクしてGCとPS2用に発売しました。ちゃんと一から作り直して3000円。『キュービックロードランナー』は3Dになって、すごく面白いですよ。奥にも逃げなきゃならなくなって、すごく内容が深くなってますから。昔のゲームを復刻させたのは、当時のユーザーにもう一度遊んでほしかったからなんです。彼らはいま、20代後半から30代になってる。自分の子供と遊んでもらえたらいいなぁと思ってるんです。親子って、共通の遊びについて話をする機会なんて、そうはないでしょう。歯を磨いたかとか、勉強したかとか、そんな会話だけじゃなくて、遊びでも会話できたらいいな、と。だから、ぜひお子さんと一緒に遊んでほしいです「そういえば、このあたりに隠しアイテムがあったなあそこでジャンプしてごらん」みたいな会話をしてね「お父さんスゴーイ」って尊敬してもらえるかもしれないじゃないですか一人で黙々とやるゲームだけじゃなくて、みんなでやるゲームのほうが、遊び方としては、ある意味、正しいですよね。ゲームをコミュニケーションツールにしてもらえたら嬉しいんですよ。その視点からすると、『ボンバーマン』なんて最適だと思うんですね。シンプルだから誰でも参加できるし、大人数でやるほど楽しい。例えば将棋や囲碁だと、ランクがシビアでしょ。強い人には絶対勝てません。だけど、爆弾を爆発させるゲームなら、相手が強くてもチャンスがあるじゃないですか。『ボンバーマン』は悪いところが見当たらないですよ。しいて言えば、買わなくちゃ遊べないくらいかな(爆)。  ちなみにボンバーマンはパソコンソフトの時、『爆弾男』ってタイトルだったんです。だけど発売直前に皇居で爆弾騒ぎがあってね。『爆弾』って付くのはマズイだろうってことになって『ボンバーマン』になりました。いま思えばタイトルを変えてよかったですよね。テロが国際問題になって、「こんな内容のゲームはマズイ」なんてことになっていたら、それこそ大変でしたよねボンバーマンの攻略法は、画面から離れて全体をみることと、爆弾を角におくこと。簡単なゲームだから、攻略法といってもその程度です。シンプルさこそが面白さなんですから。 かつてゲームをプレイしていた子供たちだって、成長して大人になっても興味を失ったわけじゃないと思います。忙しくて時間がない人もいるだろうけど、何より、複雑な操作が必要な昨今のゲームに挑戦する気力がないんじゃないかな、と。例えば僕が友だちと飲みに行くでしょ。たまには80年代のゲームの話なんかで盛り上がるわけです。僕は地声が大きいから、周囲に聞こえるようなんですよね。そうすると、周りで飲んでるサラリーマンたちが明らかに聞き耳立ててるんです。「あれ、高橋名人じゃない?」なんて声も聞こえたり。ゲームへの興味は失ってないんですよ。ただ、おっくうになってしまうだけ。  ゲーム機の進化に合わせて、ゲームソフトも進化していくのは当然ですが、こういう大人たちにもう一度ゲームを手にしてもらうためにも、もう少しシンプルで夢中になれるゲームが増えてもいいかなあ、なんて思ったりしますね。

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